[一]、
数学理論は、そもそもの発端は現実世界の現象の解析より出発したかもしれない。当初、原始的には物体の個数を数えることから始まったであろうしそれがマイナスの数、分数、小数、無理数と発展していったことも推測できる。
その段階では、数学が現象世界の解析科学の性格を持っていたといえよう。しかし、少なくとも複素数の発明に至った段階においては、最早、如何なる点からも数学は現象世界の説明科学の域を抜けだしたことを認めざるを得ない。即ち現在では、単に現象の解析論に止まる生物学、物理学、化学などの現象科学を超越しており、現実世界の諸現象とは超越した数理哲学となっている。
[二]、
1+1=2という数理論についていえば、数学的には全く同一の意味と価値を持つ1と1が、加算法により2というこれまた極めて抽象的な結果を生み出すことを示しているのみで、これが現象として現実に存在するものではないし、現実の世界の如何なる特定の現象をも意味するものではない。
幾何学において、点は場所のみ有し範域を持たないとされ、また線は長さのみあって幅を有しないとされている。これまた現実の世界では、有りえないことであり、単なる観念で造りあげられた空想的世界である。
[三]、
現実世界に例をとってみたとき、1つの特定物と1つの特定物を纏めた場合、類似して観念せられる物体の集合が認識でき、それは数理上は「2」という数値として観念できるかも知れない。しかしそこに存在する現実は単なる「2」という数値ではなく、各々独自の個性的な物体という特性を保有している現象なのである。
又、弾丸の通跡を考えるとき、或いは土地の境界を考えるときはそこに幾何学的な線を認めるであろうし、弾丸は点と考えられるであろう。そして現実には何れも物体であるいじょうは一定の範域を持った場所を占領し、或いは幅を帯しているのである。
[四]、
数学上の表現は極度に抽象化されており、現実の現象のうち、純粋な数値面にのみ着目し、他の形象を全て取りさって理論体系を構築している。 現実の世界に当てはめて(例えば物理学の問題として)考えるときは、個性面を再び取入れないと、思いがけない誤った結果に至る。
[五]、
三角形の内角の和を180度とした幾何学の体系が形成せられており、これはユークリッド幾何学と称され、現世界に普遍的な幾何学であるという認識が一般に有るようである。現在でも、幾何学といえば古典的ユークリッド幾何学を指して、学生もこれを正統なものとして学習しているようである。しかし他方180度より小さいとする幾何学の体系、更には180度より大きいとする幾何学の体系も構築されておりこの幾何学は、非ユークリッド幾何学とよばれている。これは異端とされ、現実世界に合致しない、役だたない知的ゲームとしてのみとらえられている。
[六]、
古典的なユークリッド幾何学と、非ユークリッド幾何学の何れが正しい幾何学であるか?、又は何れが本当の幾何学であるか?という問、謂いかえれば「どれが現実の世界(宇宙)に合致しているか。」という問は、正しい問には成りえない。幾何学、そして数学の理論はそれが現実の現象世界と一致しているかどうかは問題と成りえず、理論上の矛盾なき理論体系として構築されているかどうかだけが問題視されるのである。
この非ユークリッド幾何学も何等古典的ユークリッド幾何学に比べ、異色なものではなく、矛盾なきひとつの数学上の論理体系として同等の価値と地位を認められるべきものである。
[七]、
現象世界において三角形の形状をした物理現象が認められ、その内角と目される角度の合計が何度になるかは、地球物理学又は天体物理学の問題であり、物理学の責任で解明すべき問題である。