人道主義論

昭和45年(1970年)
かって戦時中、ナチスドイツで、或いは神州日本で捕虜を使った人体実験が為されたという。原子爆弾の広島投下、長崎投下もなんと言い繕おうと、一面では人体実験の性格を持っていたことは否定できない事実である。
表面は人道主義という強力な防壁の下に、人体実験は非道な行為であり、人間として許すべからざる行為であるとされていても、内実は動物実験を越えた人体実験の有用性をひそかに認識しており、戦時などの極限状態に至ると、動物実験で得た成果を更に真の人体で実験し、確認してみたいという欲望に耐えきれず、殺しあいという戦争の正確を利用して人体実験に駆られるのである。
人間の人体実験が人道主義の旗印の下に、非人間的なものとして禁ぜられている一方で、サル、ウサギ、モルモットその他色々の種類の多数の動物達が人間のために、人類のためにという命題のもとに正当化されて、その生命を提供させられ、人間の実験材料として消費されている。そして人間を実験の対象にすることに対しては頑固に認めない人類も、彼等動物を実験材料とすることに対しては、不思議なことに何の疑問もなくこれを承認しているのである。
しかしこれは人間のおごりであろう。動物の1種にしかすぎない人類に生きる権利、幸福になる権利があるとしたら、その権利は他の動物にも認められてしかるべきであろうし、人体実験が非道な行為であり、許されざるものであるとしたら、動物実験もまた非道であり、許されざるものであると言うべきであろう。彼等にとっては、それを主張する言葉と権力がないのがこの悲劇の原因であった。地球上の生物の中から特に人類のみを特別扱いする理論的根拠は存在しないのである。
人道主義を人類に限定して認め、他の動物に拡張適用しない思想は、人道主義が結局は人間のおもいやり、哀れみ、或いは慈悲などと呼ばれる心情に対する自己満足であり、他の動物たちにまで拡張して認めたのでは、肝心な人類そのものの生存が不可能となるため、無意識的に或いは意識しつつも無視して、何等の根拠も持たないまま、人間のみに限定しているのであり、その点では実にこうかつな思想であるように思われる。
キリスト教の創世記によれば、神は諸々の動物を造り、それとともに自己に似せて人間を造り、産めよふやせよ地に満てよと叫び、全ての動物は人間の支配するところとなり、人間の食物となる。と宣言したとされていて、ここに人間と犬獣との区別が明確に示されている。人間だけが神に似た存在として、物の理を知り、是非を論ずることが出来るのであって、だからこそ人間は自然を支配し、人間以外の他の動物たちを統率する絶対種として彼等の上に君臨しうることになったのであった。かくして人間と動物との断絶は絶対的であり、キリスト教及びそれを根底とするヨーロッパ思想は、極めて人間独善的な思想となっているのである。
人道主義が人間のみに限られた思想に止まっているのも、ひっきょう人道主義そのものが、キリスト教の教条が支配するヨーロッパに生れ、ヨーロッパで育まれた思想だからであろう。それがゆえにかっては、人道主義も極めて限定的に解され、白人、特にキリスト教信者にのみ認められ、黒色人種、黄色人種などの有色人種は、犬獣と同一にみなされていたのであったが、長い戦いの歴史のなかで人類全体に拡張されて来たのであった。しかしながら、この拡張も終に人類に限定せざるをえず、生命に対する執着心の点で他の動物達を人間と同様に思い遣ることが出来ない点が人間の弱さを表明すると同時に、人道主義の理論の破綻を示しているのである。
人道主義の思想を一貫すれば、単に人類全体におよばすに止まらず、動物全体に適用すべき思想であり、これは人間の特に白人の肉食そのものに対する反省をうながし、生きとしいけるもの全てに慈愛をそそぐかっての仏教の道に至るように思われる。 人道主義を掲揚し支持する者たちは、もし飽くまで人道主義が人類のみに妥当するものとして固執するのであれば、キリスト教の思想を離れて、それが人類にのみ妥当し、他の動物達には適用されることのないことの論拠を、厳密にきっちりと定立し、証明する必要があろう。それが人類のため数おおく犠牲になっている他の動物達へのせめてもの弔辞であろう。